グノーシス神話

 その昔天災があった。ヒトが他種の繁殖を妨げる程栄えすぎたため、世界の再構築が必要と神が判断したためである。彼は、天上にて手を翳し世界から太陽を奪い、手首を傷つけ千の雨を降らせた。その紅く熱い豪雨で北の氷をすべて溶かした。ヒトにより荒らされた世界を一旦海に沈め、再構築をするつもりであった。現に大陸はただ一つを残し、消え去っていった。それは誰にも止められないことのように見えた。
 だが、その時神にすら予測できなかった事態が起こる。彼の愛する七人の天使たちが反旗を翻したのだ。ヒトは未だ未熟な種であり、その可能性を潰すべきではないと考えた彼らが、神の宝珠を秘密裡に傷つけてしまったのだ。
 宝珠は神の力の源である。神はその裏切りを嘆き哀しんだ。けれども彼にはもう天使たちを罰する力は残ってはいない。彼は代わりに裏切った天使と同型の天使を同じ数生み出した。最期の力を振り絞り、こう命じた。
「決して、ヒトと、我に逆らった七人の天使たちを赦すな」と。
 生まれたての天使たちは、己が創造主の手を握り、一様に頷いた。
 それが、ヒトが唯一遺った大地「グノーシス」と天界の戦いの始まりである。
 神に捨てられた人間を擁護する天使。そしてそれを決して赦さぬ天上の天使たちの。
 七人の天使たちの戦いは、今も続いている――。


プロローグ

「だからさあ、ちょいと訳アリのガキ拾っちまってよ。ソイツの面倒、見てて欲しいんだよ」
 空は高く、森の影がその面積を約半分埋め尽くす。しっとりとした夜気が身を包み込む。聞こえるのは葉擦れと、梟の鳴き声だけ。樹海の真ん中。大石に腰掛けて、男は女を仰ぎ見た。
 女は、背に針金を通したように真っ直ぐに立っていた。髪の毛は重力に逆らってうねっている。色は赤紫。長さもかなり短い。服は白い古風な着物で、袖口と袴は紅く、背には大斧を背負っていた。
 男は足を組み替える。葉から夜露が落ち、一瞬だけ瞼を閉じた。
「俺はね、貴方とは違って面倒事は嫌いなのよ」
 雫は、ほっそりと痩けた頬を滑り、蒼白の法衣に染み入る。広がる濃紺。男は構わず両指を目の高さで合わせた。
「だから、そういう話は他の人にして。貴方だって分かってるでしょ」
 女は半尺唇の端を上げて笑ったようだった。微かに寒気が揺れる。男は気怠げに視線を女に戻した。女は片手を大斧に掛け、消えかかっていた。女を象る輪郭が、背後の大木に透けている。
「セリシアは、お前と同じだぜ。面白い。会ってみな。……任せたからな」
 最後の言葉だけ気迫のようなものを込めて、女は目を細めた。斧を垂直に降ろす。土煙と共にその場から完全に立ち去った。
 残ったのは、男が一人。
 男は眉を顰めて、重い溜息を一つ吐いた。
「ちっきしょー……」
 彼に選択の余地は無いようだった。


第1章 出会い




  オレは天使が嫌いだ。理由は分からない。ただラナに会う前の記憶がすっぽりと抜け落ちているから、それと関係があるのかもしれない。ただ理由も無く、天使が降りてきたという青空を嫌い、大概の街の中心に据えられている天使の像を壊したいと思う。だけど、今オレはラナが待っていろと言ったから、それらを前にして地べたに座っている。
 陽はもう高い。どれだけ経ったのかな。ラナがいた時、朝焼けが綺麗だったから、もう随分過ぎたよね。オレは足を伸ばして泳ぐみたいに上下にバタバタと地面を叩いてみる。さっきまで降っていた雨の名残で水溜まりが揺れただけであんまり面白くなかった。振動で前髪から雫が二、三滴落ちた。
 目の前は、知らない人ばかり通り過ぎる。白い石が敷き詰められた公園の片隅で宿無し子のように一人いるオレを睨んで哀れんで笑う。オレはそんなことは別にどうでもいい。
 天使の像から溢れる噴水で子どもたちが遊んでいるのが気に入らなくても、オレはラナがいればそれでいい。
(ラナ)
 アーチを描いて植えられている木々の向かいで汚い露天商が呼び込みをしている。黒ずんだ掌。骨が見えている。オレはラナが来る迄待っているから。たとえああなっても構わないと思う。野垂れ死んでも。誰かに助けてもらいたいとは思わない。ラナはオレを拾って育ててくれた。ラナがオレのすべて。だからオレはラナを待つ。
「こんにちは。青少年」
 その視界を大きい影が遮った。オレはじろりとねめつける。逆光で顔が見えない。人の形をしたそれは大きな手を上げて、オレの頭に白い傘を差した。
「何なのさ」
 オレはオレのテリトリを突然侵して入ってきた闖入者を更に睨んだ。ソイツはそのまま腰の重心を落としオレと視線が合う位置までしゃがみ込む。
 ソイツは変な男だった。陽を避けて下から覗き込むように人を見る。髪は腰まで伸び二つに分けて三つ編み。がっしりした肢体に法衣は似合わなく、腰に差された銀のナイフは女物だった。
 男は唇だけで笑んだ。
「ご挨拶だね、青少年。こんな所で座り込んでる貴方に日よけの傘を差しただけでその言い草ですか」
「オレは頼んでない」
 水色の瞳は笑っていない。無機質な、人形のような薄気味悪い微笑。
 純白の花柄をあしらった傘を掴む手も傷だらけだった。
「まあねえ。そうですけど。別に俺も貴方に喜ばれたいからやってるわけで無し。どうでもいいんですけど」
 そう言うと、ソイツはおもむろにオレの腕を掴んだ。強い力。オレの体が無理矢理浮かせられる。
「俺は俺の仕事をするだけだし」
 強制的に移動させられる。
 オレはそう思うと同時に、その手を全力で振り払っていた。
「……触らないでくれる」
 みっともなく尻餅をついた。でもオレはソイツから少しも目を逸らさずにいた。奴の口の端もちっとも動かなかった。
「ふ〜ん?なるほどネ。……おっけー」
 何かを得心したようにオレが爪先で裂いた下腕に触れた。少し笑う。また腰を落とした。
「んで、貴方はこんな所でどうするつもりなの。これから」
 細い目がオレを見てる。オレはそれを真っ直ぐ見つめ返す。
「ラナを待つさ」
「ラナ?」
「オレの、一番大切なひとだよ」
「そ」
 突然視界が暗くなった。何か暖かいモノがつむじの辺りに置かれる。髪が肌にくっついて気色悪かった。見上げる。奴は少し俯きがちな瞳でオレを見てた。だけど、オレに気付くとさっきみたいな笑い方で髪の毛を掻き回した。
「おっけー。合格合格」
 声はやっぱりくぐもっているような気がしたけど、オレはその太い腕を無言で掴んでどけた。彼は笑っていた。




「ランナ=モンテカルナン。……知ってるよな?」
 ソイツは、オレの隣に腰掛けた。縁石が汚れているのにも気にせず。
 雨上がりで気候はすこぶる良いが地面はまだ濡れている。その上を上機嫌なのか、それともそれが普通なのかちょっとわかりかねる顔で奴は座った。
「……当たり前だろ。オレが待ってるヒトの本名だ」
「ピンポン♪そしてそれを俺が知ってるって事は?」
「まさか」
「そ、その人の知り合いなワケ。俺は」
 よくできましたとばかりに肩を叩かれた。……嬉しくない。
「だから、何なのさ」
 少しは驚いたけど、ラナの知り合いは珍しくない。ラナは顔が広いから、一緒に旅してるといろんなヤツがしょっちゅう親しげに声を掛けてくる。ラナは相手にしないけど。コイツも同じだろうと思った。
「ムダにケイカイ心が強いね。周りの人間は皆敵だとでも思ってるワケ?」
「ラナ以外は皆敵さ」
「……あーそう」
 「わっかりやすいねー」と右手を空に翳した。陽射しが強い。オレは思わず一緒に見上げて眼帯を付けてない方の左目を掌で覆った。
「――例えばさ、この世に自分と同じ個体は存在しないわけよ。それでもひとを守りたいと思う。その根源は何だと思う?」
 ソイツはまだ掌を空に掲げていた。光を掴むように開けたり閉めたりしている。白光は指の隙間から零れ落ちていくように見えた。
「それはやっぱりさ、互いの人生において有用だからでしょ」
 諦めたように拳をつくってもう片方の手で小石を投げた。天使の噴水に群がっていたハトが一斉に蒼い空へと旅立つ。
 男はそれを目で追った。
「貴方は?貴方にとってラナはそうかもしれないけれど、ラナはそう思ってるって自信ある?」
「ラナが必要なくてもオレはラナのものさ」
「……あーはいはい」
 「ダメだね、これは」と呟きながら、男は頭を掻いた。立ち上がる。乱暴に結ってある分け目が更にぐしゃぐしゃになっていた。
「んじゃ、そろそろ行きますか。セーヌ=シアリティーこと、通称、セリシア君?」
「何、で、オレの名前……」
 ラナの名前は知られているけど、オレの名前は知られていない。一緒に歩いていてもラナみたいに声を掛けてくる奴はいない。
「だからね、昔の知り合いだって言ったでしょ?」
 何でもないことのように男は笑った。
 促すように視線を動かす。
 オレは腰を浮かした。
 男はまた笑った。 




 ここ、グノーシス大陸は七つに分かれている。アル、ルゴス、クノエ、マオン、カミル、ソム、ケノボス。それぞれ、この大陸に降りてきたという七人の天使の名にちなんで付けられている。その中で、今いる場所は炎と激情を司る女天使アルの大地。砂漠と空を貫く火山で構成されていて、土地は痩せている。人々の生活もかなり荒んでいて、その拠り所として天使信仰が盛んだ。
 街道を歩くと、そんなことを再認識させられる。軒先に天使の羽根を象った窓や、絵が飾ってあるからだ。天使を崇拝する教会も大きく、両脇に座っている物乞いも多い。
「ホント、正直だねぇ」
 前を歩く男が笑った。オレは、得体の知れないソイツを信用できないけど、何でオレの名前を知っているのかどうしても気になったから促されるまま、一緒に付いてきていた。
「キライだったり、信用できなくてもあんまりカオに出すもんじゃないよ」
 男は、細い紫の字で店名が書かれている家のドアに手を掛けた。軽い鈴の音が鳴る。オレは再び背を向けたその男と自分の背幅に苛つきながら、続いて足を踏み入れた。
 そこは民家然とした外観とは違い、きちんと塗装されていた。金箔や毛皮をふんだんに使った服が壁際にずらりと並べられている。天井で照らしているのは、ラナに話だけ聞いた事のある淡い桜色の発光石。店員も白く厚塗りされた顔に毒々しい紅を刷いて、制服の襟をきっちりと閉めていた。男の顔を見ると、からくり人形みたいにお辞儀をした。男はそれに軽く手を振る。
「どう?何か好きなものある?」
 ラナがオレを気紛れに連れ回す時も同じような雰囲気の所だったから戸惑わずにすんだけど、男が何を考えているのか分からない。何をさせたいのか。わからないから黙り込む。
「……あーのね。分かんない時は分かんないって言ってね。言わなくても分かるなんてのは甘えなんだからね」
 男は薄く笑って、店員の一人を手招きする。大慌てで来る女の人。ラナより多分年上。キツイ匂いがする。キライだな、と思った。
「あーハイハイそこ。イヤそうなカオしない。……あ、あのね、この子に似合いそうな服、探してやってくれないかな。あの雨の中、ずーっと外にいたみたいでね、このまんまじゃカゼひいちゃうから。この子にカゼなんて引かせちゃ、俺ラナに殺されちゃうよ」
 前半部分はオレに、中間は店員に、後半は独り言のように男は言った。
(何処まで本気なのか分からない)
 ラナは違う。いつもちゃんとオレの目を見て嘘の無い言葉で分かるように話してくれる。こんな風に誰の目も見ずに言うなんて絶対無い。
「――かしこまりました」
 それでも店員はきちんと折り目正しく頷いた。オレは彼女に手を引っ張られる。オレの意志はお構いなしだ。オレは反射的に手を切り離す。オレは服が多少冷たくても困ってない。何よりラナ以外の人に触られるのがイヤだった。
「あ、この子、ちょっと反抗期入ってるから。扱いは適当にね」
 男は勝手なことを言いながら、店の中央にあるカフェスペースにもうのんびりと座っている。
(適当って何なのさ。適当って)
 強く彼の方を睨んだら、手を振られた。……完全にナメられてる。
「……あの、宜しいでしょうか?」
 多少オドオドした様子になってオレの腕を無断に掴んだ女が言った。オレは女を泣かす男は最低だと日頃からラナに言われているから、無言で首を縦に振った。
「あ、それでは採寸させていただきますね」
 女はそう言ってオレの体の何カ所かにメジャーを当てた。その後、白光りする床の上を音を立てながら、奥に入っていく。
 オレは手持ちぶさたになってしまったので、仕方なく店内をもう一度見渡した。
 お客はオレたち以外にいないみたいだった。過剰に配置された店員の目が何だか突き刺さるみたいで居心地悪かった。
「お待たせしました」
 数分くらいだと思う。店員の女が何かを抱えて戻ってきた。オレはそれを見てますます不機嫌になった。
「あ、ああの……。おキライ、でしたか?」
 女が持ってきたのはオレの肩まで伸びた髪に合わせた明るい黄色のワンピース。後は、オレンジの瞳に合わせたツインのスーツ。(しかも凄く丈が短い)
「あはは。ユキちゃん、セリシア君は男の子だよー」
 男はテーブルに突っ伏して大笑いしてた。
(わざとだね)
 オレは結構、女顔だ。というより、女にしか見えないらしい。その証拠にさっき一人で座っていた時だって何度も何度も(十回位)「カノジョー♪」と声を掛けられた。
 オレの性別をわざと間違えるように仕向けた男の策略には閉口したけど、「すみません、すみませんっ!!」と本当に泣きそうな勢いで顔を下げられると放っておくわけにもいかない。
「……いいよ。他の、探してきて」
 オレはなるべくゆっくりと吐き出す。彼女の顔が輝いた。颯爽と後ろ姿を見せて走り出す。オレは深い溜息を吐いた。
「へえ、優しいね?」
 男は何故か嬉しそうに笑みを浮かべて、テーブルに肘鉄を付いていた。
 更衣室は、白いカーテンが開きっぱなしだ。オレはその横の壁に寄りかかった。腕を組む。
「……ラナが、女を泣かすなと言ったからね」
「あっそ。貴方はホントにラナばかりだね。ラナがいなくなったらどうするの?」
「そんな世界に用は無いさ」
「……あっそ」
 男は眉を顰めてコーヒーを飲み干した。
 店員の女が戻ってきてオレは背を壁から離した。




「ふ〜ん。まあまあじゃないの」
「……」
 服を散々着せ替え人形のように替えられ(確か十回以上はいった)やっと落ち着いた(ちなみにオレンジの上着にくすんだ黄土色のショートパンツだ)オレは更に一層無口になっていた。
「何なのよ?嬉しくないの」
「女じゃないし。嬉しくない」
 軽い素材で着やすいけど、袖と襟に付いている皮紐の飾りが邪魔だった。動きやすい方が好きなので、引っ張って取ろうとしたら、店員に凄い勢いで止められていた。女を泣かす訳にはいかないので黙っている。
「あっそ」
 通算六杯目のカフェオレを口に運びながら、男がようやっと立ち上がった。オレの服選びに散々NGを出してくれたのは当人のオレじゃなくて、コイツだ。店内の空気が途端に柔らかくなる。
「お勘定」
 何処からか、シルバーの財布を出す。店員の一人がニコニコ笑いながら彼に近づいた。そのまま二、三言交わす。「可愛い子ですね。知り合いの子ですか?」「まあね。頼まれたから」「これからまた何処か金山でも探しに行かれるのですか?」「考えてるトコ」
 どうでも良い言葉の欠片。流してオレはふと隣の女を見た。女は服を畳んでいた。ゆっくりと微笑む。
「愛されてますね」
(愛って何)
 そんな単語は言われた事無いし、まして言った事も無い。
「行くぞ」
 答えが出ないまま、男が呼んだから、オレはそれを思考の枠の外に捨てた。
 男が前に立っている窓は、西陽が直接入る。
 オレは眩しくて目を閉じた。
 男はそんなオレの背中を強く叩いた。
 (何なのさ)と思って、睨んだら、彼は笑ってそのまま玄関の扉を開きに行ってしまった。
 オレは慌ててそれに付いていった。




 服屋から出て、大通りを迷い無く大股で歩く男に付いていく。オレは息を切らして半分走っていた。インテリっぽい店ばかり並んでいる。ここら辺だけ石じゃなくて煉瓦で舗装されていた。
「あーそうそう。名前、言ってなかったよねぇ」
(聞いてないよ)
 オレはタッパが違うから仕方ないと思いつつもこの現実に非常に苛ついていた。
「俺の名前は一応ローク=クーランプール。ロークって呼んで良いよ」
(一応って何なのさ)
 それは要するに仮の名前なのかと思ったけど、聞くのも面倒くさい。
「あとね、まあ、聞かないから言わなかったけど、貴方のコトはラナから厳重に頼まれてるのよ。だからどっかで勝手に野垂れ死んじゃ俺も困るワケ。ラナはマジで怖いからね」
「……」
 オレは眼帯を抑えて俯いた。ロークはオレの目を真っ直ぐに見ている。嘘じゃな いと分かった。
 背中が心なしか痛い。
 ラナが外しちゃダメだと言って渡してくれた眼帯。
 それに触れていた。
 いつも手を引いて前に連れて行ってくれていたのは、ラナ。
 それなのにラナはオレをコイツに頼んだという。
 それじゃあ。
「ラナは……ラナは、もうオレのこと、要らないのかな……」
 視界が暗い。夕方だけど、人通りは少ない。立ち止まっても誰にも肩がぶつからない。自然乾燥した髪が揺れる。
 ラナに鬱陶しがられてもずっと付いていく自信はあった。だけど姿を消されたらオレにはどうすることも出来ない。
 ラナが何処の誰でも良かったから。
 何も知らない。
「……さあねぇ……」
 ロークは何の答えも出してくれない。ラナだったらすぐに間違っているかどうか言ってくれるのに。
 ラナなら。
「ま、とにかくそんな所に座り込んでたら邪魔だろ。ホラ立て」
「……いらない」
「あ?」
「要らないんだ、そんな世界なんてっ!!」
「……。甘えんな」
 殴り飛ばすより強い調子でロークが言った。
 怒ってた。本気で。
 尖った水色の瞳にオレが映ってる。
 情けなく。
(情けなくったって構わない)
 ラナがいなくちゃ。
 ラナ。
 どこにいるの。
 こわいよ。
 ひとりぼっちだよ。
「ヒトなんて、最後は皆一人で死んでくもんなんだよ。そこに何かを期待するほうが間違ってるんだ」
「ラナは死んでない」
「……まあね。アイツなら殺しても死なないだろうけどね」
 ロークは腰袋からタバコを一本取り出した。気持ちよさそうに空気を吐き出す。苦い臭いが立ち籠める。オレは鼻にツンときて泣きたくなった。でも泣かなかった。
 ラナに、男は人前では泣いてはいけないと言われていたから。
 拳を握りしめて我慢した。
 旨そうに満足げにオレの前で屈みながら吸っているロークが無性に憎らしかった。
「ま、そんな事今更怖がっても仕方ないでしょ。んでどうすんの。取り敢えずラナの性格なら俺がお前の事ちゃんとしてんのか一度は確かめに来るぜ?」
 迷う暇は無かった。
 ロークがどんな男だろうと知らない。
 彼の先にラナがいる。
 そう信じて。
 オレは心から頷いた。
「行く」
「おっけー」
 ロークは例のよく判らない笑顔で大きな掌を差し出した。オレはしっかりそれを握り返した。


第2章 過去からの呼び声





 オレの前をあの男が歩いている。長い足。速い足取り。岩ばかりの道を汗一つかかず乗り越えていく。
 オレは息が上がっている。腋や額から冷たい汗が流れるけどそれがすぐに蒸発する感じ。
 ロークは街を出てからずっと歩いている。二刻位かな。目標地点はロークが言わないから知らない。
 周りは見渡す限り白灰石。地形的には昇っているのではなくて下がってるような気がするけどとにかく暑い。それに塩っぽい臭いがする。陽射しも強くなったような気がする。
 オレは聞いてみた。
「ねえ、何処に行くのさ?」
「さあね」
「……」
(聞いた自分がバカだった)
 オレは自分の浅はかさを呪った。そして気を取り直す。
(まあ、何処だって良いんだ。それがラナに続くなら)
 彼女がいなくなったまま何もしないなんて耐えられないから。
 別に構わないと思った。
「なあ、馬鹿な男の話をしようか?」
 ロークが不意に振り向いた。手首の銀飾りが陽を弾く。親指が近くの石を指し示す。座れということらしい。オレは否定も肯定もしない。どっちでも良かった。
「おっけ」
 男が先に座った。その石はオレの肩まであって見下されているようで腹が立ったのでオレもその横、二、三歩離れた所に落ち着いた。疲れが体の中心から腕、指先に滲み入っていく。オレはもう立てないんじゃないかという不安を振り切るように両指を重ねた。
 ロークは目を細めてオレを見てた。ラナが時々する表情。オレに気付くとまたあの意地の悪い笑みに戻って両手を上げたまま背中から後ろに倒れた。
「男はね、空に憧れていたのよ。自由に空を飛ぶ小鳥にね」
 ロークの掌はやっぱり光を掴んでいるようには見えない。空から注ぐその陽射しを遮断し、妨げているようにも思える。
「小鳥は本当に綺麗だった。何もかも無くしても良いと思える位。男にとって小鳥は、それだけの価値があった」
 ロークの目も「手に入れる」ことを目指しているようでは無かった。鋭さだけ残して、何かを憎むような、そんな風な。
「実際男は何でもした。親を殺し、仲間を裏切った。今までの居場所すべてを無くしても小鳥一匹の為に命を懸けた」
 ロークは目を閉じた。両手を降ろす。片手で額の辺りを包んだ。
「だけど、小鳥は逃げてしまった。もう男には還る場所は無い。男は何もかも無くしてしまったんだ」
「……。それの何処が「馬鹿な」男の話なのさ?」
 オレは首を傾げる。意味が分からない。
「さあね?手に入れられると思ってた所じゃない?」
 ロークは笑った。
「そうかな」
 オレは納得がいかない。
「別に手に入れられなくてもいいじゃない。ずっと小鳥を探し続ければいい」
「ふぅん?貴方はそう思うんだ?」
「当たり前」
「じゃあさ、その小鳥が死んでしまっても?」
「そしたらその小鳥と一緒に死ねばいい」
「貴方は、本当に簡単で良いね」
 ロークは目を開いた。水色の瞳はともすれば空のようにも見える。茜色に染まった今の空よりちょっと前の高い青空に。オレは目を逸らした。
「でもさ、少しは葛藤した方がいいんじゃない?」
 ロークの長い指先は不規則に石面を叩いている。
(かっとう?)
 迷い?
「オレは、ラナがいればそれでいい」
「あーハイハイ。それはもう聞き飽きたわ」
 ロークは右手で頬を潰した。左手で団扇のようにあおぐ。
 砂煙が起こる。オレはそれを防ぐように目を瞑った。喉が少し痛い。過ぎた後に二、三回咳をした。
 ロークは唇に笑みを浮かべていた。
「弱い体だね。ラナが優しく育てたとは思えないから生まれつきだね。生きるのにはあまり、適してないよね」
「生きていることに意味があるとは思えない。ラナがいるから意味がある」
「あーハイハイ」
 ロークは大きく伸びをした。両手を石に押しつけ、飛び降りる。振り向かず言った。
「行きますか」
 オレはその大きい背を茜空に重ねて見てた。真っ赤に燃える太陽はもうその寿命を終えようとしていた。




 夜になった。オレは薪になるものを探してロークと別れていた。あの石から一刻ほど歩いた地点。地形は変わらない。地面の代わりに岩が敷き詰められている。ただ空気は凄く冷えていた。夜と昼で十度以上は違う感じだ。けどロークは暖を取るとかそういった生活の便利さには無頓着らしく(ここら辺はラナにそっくりだ)、「ここで一晩明かす」と言ったきり、ごろ寝してしまった。オレはそれだと体が保たないから(ラナに昔言われた)燃やせるものと食べれるものを探さなくちゃなんない。
(自分で火を出せれば良いのだけど)
 オレは空気の成分を変えることが出来る。構成している素粒子が見えるんだ。火を出すにはそれを作っている分子を掻き集めればいい。
(でもちょっと神経を使うんだよね)
 集中力が必要。加減を間違えると自分を燃やしかねないってラナが言ってた。
(くっそー……)
 ロークの早歩きは容赦なかった。おかげで足の関節は痛むし、爪が剥がれかけてる。オレはそこら辺の岩に座って靴を脱いで確認した。痛みが邪魔しそうだった。
 オレはそれをロークの前で出すのは悔しいし、弱音は吐きたくなかったから平気な顔をしてたけど。
 それに痛くて我慢できないほどじゃない。動けない怪我じゃない。
「でも何だろ。何かが痛いな……」
 久しぶりに流した自分の血は思ったより赤い。オレはそれを手で拭き取った。紅く、どす黒かった。




 オレはその夜、夢を見た。オレがまだずっと小っさい頃の夢だ。オレは今よりずっときらびやかな服を着てた。沢山の人に頭を下げられて、王様みたいだった。
 オレはつまらなそうだった。無表情で。その光景を眺めてた。
 沢山の。沢山の。人が殺されていくのを。
 ただ何となく。
 当然のように。
 みんなは嗤う。
 みんなは悦んでいる。
 殺されるひとも、殺すひとも、笑いながら。
 血飛沫がオレの顔に飛んだ。
 オレはそれを手で掬った。
 オレの血と同じ臭いがした。
 夢はそこで途切れた。


「起きたか」
 ロークの顔があった。現実だった。オレは暫く彼の顔を見つめていた。手や足が焼けるように熱い。服や髪が体に張りついていた。心臓が動いて、手が動くのを確かめてようやくこの世界を認識する。
(なんで今更あんな夢……)
 虫の音も聞こえない。静寂。薄い雲が夜空を駆け抜けて半月を時々隠す。オレが集めた火付け石に炎がたなびいていた。
 ロークは焚き火の向こう側で胡座を掻いていた。
(怖いよ……)
 ラナ。
 まじないのように呟く。
 オレを照らしてくれた唯一のひかり。
(多分ラナがいないからだ)
 あんな夢。
 こんな気持ち、ラナが手を握ってくれたら消えるのに。
 敷き布団代わりの冷たい石がオレの体温を奪っていく。
 すべて失ってしまいそうだった。
「寝ないの」
 ロークは横顔のまま言った。
 オレの上にはいつの間にか知らない上着が被せられている。
「怖い夢は夢でしかない。現実では起こらないよ」
「……。でも」
(アレが本当にあった事じゃないって、オレは言えないんだ。オレは記憶が無いから)
「別にね、言いたくないなら言わなくてもいいけど。いつも誰かが傍にいるとは限らないよ」
 ロークは手を伸ばして薪木をひっくり返した。
 オレが寝てからずっとコイツはこうして火の番をしていたのだろうか。
 頼んでないのに。
「……。オレは、人殺しかも、しれないんだ」
「……」
「この手も、血に濡れているかもしれないんだ。分からない。それが……怖いんだ」
 俯いたままロークは応えない。
 オレは答えを期待してなかったから、ムダと思いつつもう一度身を縮めた。
「分からないことを怯えても仕方が無いだろう」
 炎がパチッと一際大きな音を立てた。
 オレは驚いて視線を上げた。
 ロークの瞳には炎が映っている。
 頬も紅く染まっていた。
 オレは動こうとして掛けられている上着がロークのものだと気付いた。
「それよりも、「そうかもしれない」と思う事の方が問題だろう。……少なくとも、全面否定できる事実が今の自分にないんだからな」
「……」
(そう、なのかな)
 でも、自分がこれからどうするかなんて、分からない。
「貴方は、ラナが「人を殺せ」と言ったら、人を殺すんでしょう」
「ラナは……!!ラナは、そんなこと、言わないっ!!」
「……どうして、わかる……?」
 ロークはふっと笑った。ほどいた、ウェーブ掛かった長髪がその動きに揺れる。
「ひとは変わるよ。それはどうしようもなく。誰にも止められない」
「ラナとオレは変わらない」
 ロークは泣くみたいに笑った。
「貴方が大変羨ましいよ」
 それから腰の短剣を取り出した。
 切れ味を確かめるみたいにその無機質な表面を月に翳した。
「出ておいで。気付いているよ」
 ロークの後ろ、数メートル離れた所で動く影があった。
 ロークは立ち上がり、肩に掛けた白いマフラーを後ろに押しやった。
 オレの前に立ちはだかった。




「友情ごっこは、楽しかったかい?」
 影はイヤな笑みをする男だった。背はロークより低い。体格も彼よりかなり貧相だ。それなのに貧弱そうな雰囲気はせず、逆にその細さが舐められているような、意味の分からない気持ち悪さを伝えていた。
「だけど、残念だったネ。ソレはもう、ボクのモノなんだヨ。生まれた時からネ」
 風が強く吹いた。
 オレは思わず手で覆う。
 その時、突然のぬくもりがオレを掴んで男の気配を遠ざけた。
 ロークがオレの肩を抱いていた。
 跳躍し、オレの背丈くらいの石の後ろに着陸する。
 数メートル更に離れていた。
「貴方は見てなさいね」
 ロークはオレを置いてまた飛んだ。
 オレは速すぎて反応できない。
 ロークの服の端が目の前を通り過ぎる時、指が空に舞った。
「お前は……!!」
 オレの叫びを無視して。
「俺は頑張りますからね」
 軽く笑った。
 ロークはもう男の前に来ている。
 男も嗤った。
「アラアラ。随分情が移っちゃったようだネ。大罪を犯してから、すっかり中立に成り下がっていたと思っていたのにネェ」
 両目を隠す前髪を掻き上げて、瞳を歪めた。
 彼は地上数メートルを浮遊している。その背には白い翼が生えていた。一つ羽ばたく度、強風が起こる。小石が宙に舞う。
 ロークも前に屈んだ。
 何かが風下のオレ目がけて飛んでくる。
 オレは手を伸ばしてそれを捕獲した。
 濡れた鴉色。
 鳥のような羽根だった。
「けがらわしい」
 男は眉を顰めた。彼の水平線上にロークがいた。背に男と同じような翼を広げて。ただ色が違う。闇そのもののような色彩。オレが手に取ったのは彼の羽根だった。
 オレは綺麗だと思う。
 深い藍色の夜光に彼の翼は映えた。
 白い翼は不自然に思えた。
「でもまあ、それは当然でしょうネ。その翼は「堕天」の証。キミがボクたち天を裏切った証なんだから。本来キミは生きている価値の無いモノです」
 男は耳まで裂けた紅い口を上げた。青く染められた爪を下げる。その軌道に合わせて風に爪痕が遺った。直線上の石が真っ二つに割ける。石が転がるだけの大地をニヤリと嗤った。
「こんな大地。護る価値なんて無いでしょうに。キミたちが神を裏切る意味が分かりません」
「そんなモン。……一つありゃ充分だろ」
「ああなるほど。あのちっぽけな少女のことですネ。キミを拐かし、ヒトを守ってほしいと厚かましくも懇願した娘。結局は、キミを遺して独りで死んでしまったけどネ」
「……」
「馬鹿な話」
 男は哄笑した。顎を上げ、掻き抱くように両腕で空を仰いだ。甲高いその笑い声に風が乗ってまた数個、オレの背丈ぐらいの石が舞い上がる。握られる両の拳と同時に空中で 砕けた。
「アハハッッ。どうしたんです?反論して下さいよそのドブくさい、汚い声でねえっ!!」
 光の帯を描いてロークの胸の辺りを遠距離で抉る。長い爪が空気という壁を研いだように見えた。男の目は愉悦に満ちていた。優位を疑っていなかった。男の白衣が重力に逆らうように踊る。
「……るせ」
 小さい声。
 一瞬だった。
 ロークの甲が光った。
 目映い十字が浮かんだ。
「イチイチイチうぜえんだよっ!!おめえらそんなにエライんか、ああ?っざけんなっ!! 」
 星を中心からなぞる。
 六つの角を時計回りに描く。
 銀のナイフを空に掲げた。
「お前があの女を貶すことは赦さねえよ」
 黒雲が彼の頭上に集まり始める。
 雷を伴い、急速に空模様が怪しくなる。
 オレの視界すべての星がそれに消えた。
「死ね」
 雷鳴が落ちた。
 刃に絡まり、男に放たれる。
 光速の飛行。
 闇夜にただ一つ瞬く光のように空を切り裂き、ただ男を目指す。
 金属に弾ける摩擦音が聞こえた。
「ハッ」
 男は嗤った。脇腹から同型のナイフを取り出す。軌跡の途中に放り出した。
「そんなモノは、効きませんヨ」
 それらはかち合って響き合った。同等の力が両方向から掛かって、鈍い金属音が響く。ロークは笑った。さっきとは逆方向に星を描き、口中で何か短い音を紡いだ。
――バンッ!!
 空中で何かが変化した。太陽光のような明るさが数百メートル四方を照らし、オレの目を奪った。その直下が色が変わるくらい剔れた。男が吹っ飛ぶ。翼のある背中から思い切り地面に叩きつけられ、苦しげに息を吐き出した。
「何……」
 男も何が起きたのか判断できないようだった。二、三度頭を振る。それから頭上を見上げて驚嘆した。
「フレンソワ・デ・ラ・イグナーレ」
 未だあったのかと独白した。信じられないというように目が大きく見開かれる。
「神の光槍」
 呟いた。男のナイフは破散していた。ロークの背丈半分くらいの大きさの繭が花開く。ロークは笑みを消していた。手を差し込み、何かを持ち上げる。ロークの手の中でそれは形を象る。自ら発してた光輝を鎮める。柄に純白の十字を彫り込んだ白銀の槍が顕れた。
「そう。俺が、お前をここまで誘き出した理由さ」
「何?」
「ふん。俺がお前に気付いてないとでも思っていたのか?識っていたさ。俺たちを付け狙っていたのはな」
 ロークは黒い翼で羽ばたき、槍を振り下ろした。数十メートル上空から真空撃を繰り出す。男は反射的に右に撥ねた。白い羽と右手の遠心力で咄嗟に避ける。
「くっ……っ!!」
 男のいた位置は無くなっていた。地底まで続くような裂け目が大地に走っている。下が見えない崖が出来た。
「ほら、な?壊しちまうから。俺は約束は守るつもりだからな。ヒトを殺すわけにはいかねえんだよ」
「裏切り者っ!!」
「何とでも言え。どうせ死んじまうんだから」
 ロークはまた槍を翳した。男は右の長い爪で腕に三本傷を作った。ロークをねめつける。男は諦めていなかった。
「裏切り者。主の広大な御心を分かろうともせず、地で這い蹲る些少な蟻どもにだけ心を砕く愚か者。キミに神から授かりしその槍を揮う権利は無い。穢れたその魂に相応しい裁きを受けるがいい……!!」
 爪に付着した血痕が蜷局のように炎を巻き出した。炎の源は何処だろうと、目を凝らして、ゾッとした。男はその細い腕から流れ出る血をそのまま炎に変換しているのだっ!!
 どんどん流れる炎。それはもう、男の全身像より大きい。男はその身に巡る血をすべて力に変化させることでロークを完全にこの世から消し去ろうとしていた。
「ロ、ロークっ!!」
 オレは震える両足がもどかしくて、悔しくて。オレに羽があったら。そんな仮定が心を掠めて虚しかった。飛べればその背に追いつくことは簡単なハズなのに。オレとロークの距離は羽をひとたび振動させれば追いつける筈だった。
「ロークっ!!」
 ロークの表情は見えない。背中だけ。オレより大きいそれだけ。
(滅えるのか、オレの前でまた死ぬのか?)
 紅い血の海。
 ただ観ていた。
 命はカンタンで。
 左胸を貫けば消える。
(あの夢のように)
「あ……あ……」
(オレ、オレ……)
 何かが駆け巡る。
 オレ自身の体の中、自分でも抑えきれない衝動。
 肉という枠を超え、出ていきたいと願う、オレの意志とは関係無い力。
(眼が痛い……っ!!)
 右目が激しく痛む。
 背中も派生して疼く。
 大きな傷痕。
 ラナと出逢う前から出来ていた、過去の遺物。
 破裂して焼け爛れそうだった。
「うわあああああっ!!」
 眼帯が弾け飛んだ。
 目の前が真っ赤になった。




「さすがボクの息子……」
 目に飛び込んできたのは、鮮やかな紅。そしてイヤでイヤで仕方無かった、オレによく似た男の顔。
 首から下は無かった。ポーズをそのまま象った黒い影のようなものが地面に付いていた。
「……だけどネ、お前は決してその血縛から逃れることは出来ないヨ」
 地面も赤く焦げていた。見渡す限り全部、赤い地肌が続いている。
 男は口から血を流しながら、嗤った。
「「ひと殺し」として、生きながら苦しむといいっ……!!」
 その言葉をオレに投げつけて果てた。
 オレはもう何も吐かなくなったその男の首をじっと見つめていた。
 涙は何故か出てこなかった。

 オレはそれから男の首を素手のまま握って、地中深くに埋めた。
 埋め終わった後、いつの間にか隣にいたロークと地べたに座って、地平線を昇る太陽をいつまでも眺めていた。


エピローグ




 天使には諸説ある。平和と穏やかさを好む。戦を好む。ヒトに関わるのを拒む。その身に二、三の人格を有す。ヒトの哀しみを悦ぶ。等々。
 その中に於いて、翼を抉り取られた者は例外なく、その魂を歪ませ殺戮と享楽に走ると言われている。
「残酷なことを……」
 幼い容貌にいつも精一杯の気の強さを称えているその瞳は今は開かない。
 ロークがせめてのもの安らぎに眠りを授ける魔法を掛けたからだ。天から堕ち、ヒトにその翼を抉り取られた悲劇の天使は、ロークの肩に頭を預けている。
「俺としたことが、あの紅い瞳を見るまで気付かなかったなんてね……」
 猫のように瞳孔の細い眼をした、生意気な「ただの」人間の少年だと思っていた。
 もちろん極度の人間不信が彼の過去が暗いことを語っていたが。
(まさか「同類」とは思わなかったな……)
 ラナが右眼の眼帯で封じていたのは、彼の忌むべき堕ちた証、紅い瞳ではなく彼が隠し持っている殺戮への衝動。
 彼は嗤いながら自分の父親の部位を一つずつ引き千切っていった。ロークがその心を無理矢理抑えつける魔法を掛けなければ彼は何人のヒトをそうやって殺したか分からない。
「分かっていて、取り逃したのか?ラナ。いや……アル?」
「バレてたか」
 悪戯が見つかったような笑顔で空気を割って 女性が出現した。大斧を背負っている。男のように短くした赤紫の髪が印象的な、二十代前半の姿を取っていた。
「貴方の気配の消し方は完璧だけど、行動は単純だから俺にはすぐに分かるよ」
「流石だな」
 カラカラと豪快に笑うこの女性を、彼は嫌いではなかった。ひとと関わらない事を決めた遠い昔から今まで付き合いが変わらない、彼にしては珍しい知己の一人だった。
「まあ、確かにお前が怒るのも分かるぜ。今回は私の失敗だった」
「何が、失敗?」
「この子には、乗り越えて欲しかったんだよ」
 ヒトと天使、両方に裏切られた事実を。
 ラナは自嘲気味に笑った。
 ヒトは、天から堕ちてきた恩寵を手放したくないと怖れる余り、生まれたばかりのセリシアの翼を切り取った。そして血を欲しがる彼に「供物」と称して増えすぎて国では抱えきれなくなった人口の半分を捧げたのだ。
 彼が未だに見る夢は、実際にやってきたことの一部であるとラナは知っていた。
 ラナはもちろん一生その事実を告げる気は無いが。――それでもその時の記憶は完璧なラナの魔法を綻ばせるほど、彼の心を傷つけていた。
 それから、彼を堕とした天使。
 彼らはヒトが天使を手に入れたらどういう行動を取るのか知っていながら、彼を、セリシアを天から堕とした。
 十四年前、グノーシスを一応人間のものとするということで合意した休戦協定に納得いかなかった強硬派の仕業だった。
 神から初めて生まれ、神具を授けられた七人の天使とその他の天使の戦力差は歴然であり、これ以上の犠牲を避けたかった天側の天使たちの要望によるものだったが、一部の者たちは受け容れなかったのである。
 彼らは同胞であるセリシアの翼を奪い狂わせた「犯人」としてヒトの殲滅の理由付けを行った。
 彼らにとってもセリシアは「道具」だった。
「……父親なら、もしかしたらと思ってな」
「甘かったね」
「ああ、反省してる」
 ラナこと、炎と激情を司る女天使アルは、慈しみと哀しみに満ちた瞳で育て子の髪を優しく梳いた。
「どうしてだろうな……、戦いでしか昂揚できないこの私がこんなに愛しく思っているのに……どうして生んだ親が子を愛さないんだろう……」
「そんな事、知らないよ」
「そうだな。……悪かった。……でもこの子が、私以外の者に懐いているのを初めて見られて嬉しかった。そこに希望を見出しちゃダメかな、ルゴス?」
 光と理性を司るルゴスにアルは軽く首を傾げた。
「さあね」
 ルゴスは肩から落ちて膝で眠っているセリシアを放置している。
 アルは微笑んだ。
「やっぱり、今日はいいモノを見たな」
「行くの」
 ルゴスは横目で聞いた。アルは背伸びしている。
「ああ、まだ残党が多少残ってるんだよ。面倒臭せぇよなあ」
「楽しそうじゃない」
「まあな。戦うのは好きだ。でもさ、やっぱ今はセリシアといる方がいいんだよ。……不思議だよなあ」
「あっそ」
「お前も、いつかそうなるかもよ」
「なるか。阿呆」
「アッハッハ。……じゃ、また頼むわ」
 一人豪快に笑って、黒い翼で飛び去った知人を見送った後、ロゴスは膝の上の物体に囁いた。
「良かったな。大切だってよ」
 その物体が小さく鳴動したような気がしたが……彼は敢えて問い質さなかった。




 神は七人の天使を生み出した後、その姿を模した土人形でヒトを創り出したという。いわばヒトは神にとって子どものような存在であると言える。だが、そんな彼らを神は遙かなる海の藻屑に変えようとした。この世から消え去ろうとしたのだ。
 七人の天使はその意志が理解できない。彼らは戦い続けるだろう。それぞれの正義に則って。
 万物の象徴である海。始まりと終わりの地。すべては海から生まれ、海に還る。だが神の手を離れたヒトは海から離れ地へと独りでに歩き出した。すべてのモノは創造主の、始まりの場所から遠く離れていく。
 神がヒトを海の底へ沈めんとした魔法の理由は、案外そんなものだったのかもしれない。

[モドル]  [ヒトコト]